コスモス
北山 悠
正月二日の朝、僕は六時に起き出した。テーブルの上には元旦に食べ残した御節とビールの空き缶が転がっていた。ガスレンジの上の雑煮の残りに火をつけ、切り餅を電子レンジに入れた。この日、社長宅訪問が計画されていたが、社長とは言っても、自分の会社の社長ではない。朝陽電気という会社の社長宅で、子会社韓国アサヒ労組との間で争議状態になっており、年明け早々の要請行動だった。
残りの御節と雑煮をかけ込んで家を出たのは七時半になっていた。妻も娘も起き出してくるようすはなかった。そこからバスと電車を乗り継いで日暮里駅に着いたのは、集合時間の九時にはまだ間があった。去年の十二月にも社長宅訪問があって参加したが、入り組んだ住宅街の中にある社長宅には一人ではたどり着けそうもない。根っからの方向音痴だった。九時になると、そこには二十人ほどの人が集まってきた。北部労連に参加している組合員や日韓連帯運動をやっている人たちだった。何人か顔見知りはいたが、名前も所属も不確かだった。
事務長と呼ばれる運動の中心人物が口を開いた。
「正月二日というなか、多くの皆さんに来ていただいてありがとうございます。ここから十五分ほど歩いたところに、社長宅があります。この間のように韓国アサヒ労組の手紙を伝達しますが、前回のように警備会社や警察が来るかもしれませんので、挑発に乗らないように注意してください。そちらのほうは北部労連の書記の人が対応しますので、任せてください。それから駅に戻ってきて一時間ほど市民向けの駅頭情宣をします。全体で昼前には終える予定ですので、よろしくお願いします。手紙の翻訳文を配布いたしますので、受け取ってください。それでは、移動します」
僕らは長く伸びた列を作って歩き出した。幟旗を立てるポールを持った人、腕に組合の腕章を巻いている人もいた。僕は北部労連の顔見知りに声をかけた。
「随分、集まりましたね」
「そうだよね、正月二日だというのにたいしたものだ。まあ、韓国の組合員は籠城テントで震えているんだから、僕らも頑張らなければね」
韓国アサヒの争議が始まったのは去年の夏だった。本社役員会が突然に韓国アサヒの解散をホームページ上に発表した。この告知によると、正式な廃業は今年一月下旬だった。法律の手続きのせいとか、労使協定を守るためとかで、六か月の猶予期間が設定されたのだった。そのとき組合員たちは会社の休業措置中だったので、七割ほどの給料が出ていた。会社は希望退職を募集し、応募者には慰労金を支払うとのことだった。赤字企業とは思えないほどの高額の慰労金が用意され、切り崩しが行われた。
「赤字を理由にした廃業にしては破格の慰労金なのに、二三人の組合員は誰も応じる者がいないし、廃業撤回で頑張っているんだから、すごいですね」
「うん、結構な数の管理職はさっさと希望退職に応じたらしいよ」
住宅街にある社長宅はあまり大きなものではなかった。社長とは言ってもオーナー社長ではなく、電気メーカーらしく、技術畑あがりの元エンジニアのサラリーマン社長とのことだった。車が一台停めてあって、窓には薄いカーテンが引かれ、なかの様子はうかがい知れなかった。監視カメラが三台玄関先に向けられていた。
ここでは、横断幕とプラカードが出されただけだった。事務長が玄関先のインターホーンに呼びかけた。
「朝陽電気の社長さんいらっしゃいますか。お留守ですか。韓国の労働組合から手紙を預かってきましたので、受け取ってください」
正月二日の朝に出かけるはずはなかったので、居留守を使っているに違いなかった。何度か呼びかけたが返答はなく、インターホーンの前で読み上げることになった。
「社長さん、新年いかがお過ごしですか。御家族とともに穏やかに新年を迎えたことと思います。しかし、私たちは隙間風が吹き込む籠城テントで新年を迎えています。私たちの工場廃業を決定したのは、本社の役員会でした。韓国アサヒの経営陣も知らないことでしたし、いまは連絡も取れません。この決定を下したのは本社であり、撤回できるのも本社です。社長さん、争議の解決に乗り出してください」
社長への手紙が読み上げられると、白い警察車両が現れた。北部労連の書記が窓越しに話をしているのが見えた。
「誰が呼んだんでしょうね」と隣の女性が言った。
「年末にも来ましたよ。通報があったとか言っているんでしょうが、社長本人かも知れませんよ。今日は御近所さんが出てこないだけでも良かったですね」
手紙の朗読が続いていた。今回の本社決定は、これまでの労使合意に反すること、廃業理由の累積赤字の責任は経営陣にあり、自分たちは一生懸命働いて製品を作ったが、赤字という製品は作らなかったこと、そして赤字そのものも意図的に作られたものであり、狙いは組合潰しだと手紙は訴えていた。言葉は丁寧だったが、主張は昨年夏からのものだった。手紙の朗読が終わると、支援の仲間が何人か挨拶をした。トラメガは使われず、玄関先に横断幕とプラカードを掲げた仲間が立っているだけだった。プラカードには「本社は争議を解決しろ」とか「廃業・解雇を撤回しろ」とか書かれていた。行動は接近禁止処分が出ないように注意深く行われていた。ときおり、ご近所の窓越しに覗き込む顔が見えた。パトカーはアリバイ的にやってきて帰って行った。
僕らはまた、寡黙な列を作って日暮里駅に向かった。
僕が韓国アサヒ労組のことを知ったのは、争議が始まって数か月が過ぎた九月頃だった。北部労連などの労働組合と市民が「韓国アサヒ労組を支援する会」を作るための集会を開き、僕らにも動員要請があったからだ。
日暮里駅前に着くと、韓国アサヒ労組を支援する会、労働組合、北部労連などの幟旗が立てられ、偽装廃業・解雇撤回の横断幕が掲げられた。トラメガでアピールが始まり、チラシが配られた。正月二日の朝は穏やかな青空のもと晴れ着姿の家族連れが行き交った。いつもと違うのはコロナ禍のせいで誰もがマスクをしていることだった。
「日暮里駅頭をご通行中の皆さん、私たちは韓国アサヒ労組を支援する市民、労働者です。この近くに朝陽電気という会社とその社長宅があります。その子会社の韓国アサヒでは組合潰しの偽装廃業と解雇が行われようとしています。仲間の配るチラシを受け取り、抗議の声を上げてください」。
司会の挨拶に続いて支援の組合や争議組合が次々のアピールをした。いつもながらチラシの受け取りは悪かった。
「どうなんですか、この争議は?」僕はプラカードを持った隣の男に話しかけた。
「うん、今月下旬に正式に廃業と解雇になるらしいんだ。既定方針通りなんだけど、一人も欠けずに組合が頑張っているのがすごいですよね」
「そうですか。これまでと何が違うんですか」
「ずっと休業状態だったが、これからは雇用関係がなくなるから、無給状態になるらしい。退職金を振りこんできたらしいけどね。戻るべく会社そのものがなくなるんだから、組合としても大変だろうよ」
「韓国でも周りでは勝てない争議だって言っているらしいですね」
「ああ、そうらしい。でも、ひとりも欠けずに闘い続けているんだから、すごいよ。日本とは労働者意識みたいのが違うんだな」
日本側のアピールが終わると、スマホで繋いでのオンライン・アピールが流れた。本来なら韓国から遠征団が組織されるところだが、コロナ禍で入国ができず、オンラインのアピールになっているのだった。聞き慣れない韓国語が流れると、通行人の何人かがチラシを受け取りはじめ、話し込んでいるのが見えた。一時間ほどの街宣活動はまもなく終わった。
僕らが北部労連に加盟したのは四年前だった。
僕は開明ゼミナールという予備校で講師を始めたばかりだった。妻は病院事務の仕事をしていて、中学生の女の子が一人いた。塾講師になる前の僕は、弁護士事務所のアルバイトをしながら司法試験を目指していた。三度目の挑戦に失敗した僕は、司法試験に見切りをつけ、専任の塾講師を始めることになった。ずっと薄給の身であった僕は、これ以上妻に甘えることができなかったし、二人の関係はギスギスしたものになり始めたのを感じていた。
開明ゼミナールの本部は埼玉にあり、僕が勤めた北千住校は都内では二校目の学校だった。埼玉に本部があるのだから、北千住はちょっと足を伸ばした位置にあった。落ちこぼれの生徒を教える学習塾として始まった開明ゼミナールは、有名私立や難関校をも目指せる予備校に生まれ変わろうとしていた。大手予備校の成功パターンに挑戦し始めようとしていた。校長は埼玉の本部から送りこまれてきた四〇代の男で、本部の意向に沿って学校を作り変えようとしているようだった。もともと北千住校は、山田塾という小さな学習塾で、落ちこぼれの生徒の授業の後れを取り戻すような学校を経営していた。その山田塾が身売りをする形で開明ゼミナールに買い取られたのだった。開明ゼミナールは、山田塾からの事務員や講師と、開明ゼミナール発足と同時に採用されたスタッフに分かれていた。事務方を取り仕切っていたのは山田塾からの人で、松野という姉御肌の人だった。山田塾時代の塾長に代わって事務一切を取り仕切っていた。前身の山田塾と開明ゼミナールの間には大きな溝があるようだった。松野は働きやすい職場作りのために、細やかな配慮を忘れない人だったが、新しい校長は上から目線の男だった。北千住校を開明ゼミナールの色に変えるべく、勇んで乗り込んできた男だった。山田塾では残業などもしっかり払われていたらしいのだが、開明ゼミナールになると、曖昧にされ、松野と校長との諍いが事務所でも見られるようになった。
それは小さなことから始まった。新入生募集のティシュ配りに僕らは動員されたのだが、その残業代が曖昧にされた。校長は「可能な人だけの自主的活動」だからと言っていたが、僕の目からも強制性ははっきりしていると感じていた。いわゆるサービス残業ということなのだが、そのあり様は他の業務にも波及した。実際には残業なしでは追っつけない業務も「NO残業デー」だの「残業自粛」だのと曖昧にされ、サービス残業が横行した。
山田塾以来の事務員や講師の不満が松野のところに押し寄せ、その声を代弁して校長にぶつけたが、開明ゼミナールでは当たり前のことのようで、聞く耳を持たなかったようだ。労働条件だけではなく、根本的な学校運営への行き違いもあったようだった。
僕が松野に行きつけの居酒屋「青葉」の二階で向き合ったのはそんなときだった。松野の横に加藤先生がいた。加藤は山田塾以来の人気講師で生徒から「朱美先生」と呼ばれていた。三〇代とのことだったが、それよりは若く見える人だった。
「この店はね、クサヤがおいしいのよ。食べられるかしら」
と松野が言い、生ビールと肴を注文した。生ビールで喉を潤すと、松野が話しだした。
「瀬川先生、仕事はどうですか。まだ半年も経ってないんだけど…」
「はい、なんとか……」
僕は何か、まずい評判が出ているのかと不安だった。
「先生が弁護士事務所にいらっしゃったと聞いています。それも、労働問題に熱心な事務所だったって…」
「…………」
「私たちね、労働組合をつくろうと思っているの。もちろん、瀬川さんにも参加してほしいんだけど、法律的にどうなんだろうと思って」
「ああ、そうですか」
生徒からのクレームでなくて僕はほっとして生ビールに口をつけた。
「新しく開明ゼミナールになって、随分とやり方が違うんで、戸惑っているの。特に山田塾にいた人たちを中心にね、朱美ちゃんなんか学校の教育方針にも一言言いたいらしいし…」
加藤は赤い頬をして何度か頷いた。
「慌てることはありませんよ。何人か話ができそうな人がまとまったら、知り合いの弁護士に話をしてもらいましょう。その人、酒好きでね、美味しいお酒を飲ませれば大丈夫ですよ。それに弁護士バッチには誰だって弱いし…」
そうやって僕らは組合作りを始めることになった。松野は、旦那が運送会社の運転手で、高校と中学の男の子がいる、男勝りの姉御肌の人で、なによりも事務能力にも長け、人望があった。開明ゼミナールになっても、事務方は松野が中心になっていたし、校長も一目置いているのがわかった。そんな松野だから、組合作りの中心になるのは自然なことだった。ハキハキと明るい加藤は講師仲間でも信頼されていたし、何よりも生徒たちに人気があった。この二人がタッグを組めば、うまくいきそうな予感があった。
その日、僕らは遅くまで飲んだが、組合作りの話はわずかで、学園内の噂話やら、校長に対する不満がほとんどだった。加藤は「アラサー」と自分を紹介していたが、少なくても後半だろうと僕は目星をつけた。加藤はちょっと変わった経歴の人だった。高校を終わると、アメリカの大学に留学したのだそうだ。町の名前も言っていたのだが、その話のときには僕も随分と酔っていて、僕は「アメリカの片田舎」とインプットした。アメリカから帰ってくると日本語教師になり、中国の安徽省の、これも片田舎の大学に赴任したようだった。そこに三年いて帰国し、何年か日本語教師をしていたが、薄給に耐え切れずに山田塾の英語教師の非常勤講師との二股をかけるようになり、そして、開明ゼミナールになるときに専任講師になったのだという。
「日本語教師って、面白いんですか」
「そうね、アメリカと中国で教えているときは、楽しかったわ。でも、日本は最悪かな。日本語学校はブラック業界で経済的にも厳しいし、大学進学のための予備校といった感じなのよ。いいとこの、それもわがままな少年少女のお相手はもう限界かなって思って…」
その飲み会から僕は少しだけ加藤のことが気になり始めていた。
僕らの組合作りはうまくいった。労働組合の結成大会は「青葉」の二階を借り切って行われた。非常勤講師も含めて十五人の参加でスタートした。それは僕らが対象にした八割近くを組織したことになった。そのとき地域の組合が参加している北部労連にも加盟した。僕らは何度か「青葉」に集まって要求作りの議論をした。いつもそこそこに切り上げて酒盛りになったが、それはそれで組合員の団結作りには役に立っていると僕は思った。
初団交は十月だったが、北部労連の専従も来てくれた。組合からは松野と僕が参加した。僕ら二人だけを公然化し、その他は伏せておいた。未払い残業の改善のほかには年末の一時金要求額を提示し、非常勤講師にも常勤の比率に見合ったものを要求した。しかし、団交に漕ぎつけるには時間がかかったものだ。校長はしきりに本部と連絡を取り出し、北部労連からの圧力でやっと実現した格好だった。北部労連に加盟していたことを素直に喜んだ。
学校は未払い残業についてはすぐに改善したものの、非常勤講師の処遇では委託業務契約であり、応じられないと突っぱねてきた。開明ゼミナール全体にも波及する問題らしく、頑として強硬姿勢をとった。当初は組合そのものを認めない可能性もあると思っていたので、胸を撫ぜおろす思いだった。組合が認められて何よりも嬉しかったのは、パワハラめいた校長の態度の変化だった。それと、これまで本部から松野に伝えられていたことが少なくなり、校長が事務処理業務に関わり出したことだった。委員長として松野の名前を通告したのだから、学校の内情に関する情報は秘密にしたかったのだろう。とにかく「働きやすい」職場になったことが何よりも大きな成果だと僕らは満足した。
三月中旬のその日、学校に向かっていた僕のスマホが振動した。松野からのメールで折り返し電話をくれというものだった。僕はホームに降りて電話をした。
「ああ、瀬川先生、やられちゃったわ。いま学校の前なんだけど、閉校にするって張り紙があって鍵を変えたみたいで中にも入れないのよ。早く来てくれる」
僕は組合活動を嫌った偽装閉校なのだと直感した。
学校の前には加藤先生がいた。
「先生、見てくださいよ」
張り紙には都合により閉校すること、生徒・保護者ならびに関係者には追って連絡する旨が書かれていた。僕はその張り紙を写真に残し、
「松野さんたちはどうしたんですか」
「ええ、いつものコーヒー店の二階よ。何人か集まっているし、来そうな人には連絡をとっているわ」
チェーン・カフェの二階には十人ほどが集まっていた。非常勤講師は少なく、ほとんどが専任か正規社員たちだった。全員が組合員というわけではなかった。
「どうなってるんですか」と僕は松野に聞いた。
「校長や埼玉の本部に電話しているんだけど、校長とは繋がらないし、本部はそんな話は聞いていないっていうし、北千住校のことなんで…っていうのよ」
「本来、四月からの新入生を募集する時期だったんだけど、校長はあまり熱心ではなかったような気がするの」松野の説明だった。
(組合なんか作るからよ)というつぶやきが聞こえた。誰の言葉なのか、定かではなかったが、非組の事務員の声に違いないと僕は思った。その彼女は事務能力もあり、松野とともに山田塾以来の職員だった。僕はすぐにでも労働組合に加入するものと思ったものだった。僕がそのことを松野に問い糺したとき、松野は思想的に受け入れ難いんだと思うのと説明してくれた。労働組合を作ることに強く違和感を持っているようだった。しかし、彼女だけではなく、僕の胸の内も彼女と変わらなかった。これは組合活動を嫌った偽装閉校に違いないと確信した。
「とにかく、今日のところはこれ以上には進展しそうもないわ」
と松野が言って解散することになった。
「ねえ、瀬川先生、この先に小さな公園があるんだけど、きっと桜が咲いているころだから、花見でもしない」
とカフェの玄関先で松野に誘われた。コンビニに寄ってビールとツマミを買って公園に急いだ。八分咲きの桜が見事だった。子供をつれたママ友がベンチに座っていて、日当たりのいい桜は風にあおられてヒラヒラと花びらを落とした。ママ友の子供と思しき女の子と男の子が声を上げながら花びらを追いかけていた。
「瀬川先生って、お子さんいらっしゃるんですよね」
と松野が言って、缶ビールを開けた。
「ええ、中一の女の子です。でも、全然口を利いてくれなくて」
「うちの子、男の子が二人だけど、結構うるさいくらいおしゃべりするわ。でも、旦那とは全然。男三人だけだと恐ろしいくらいに静かなの」
家庭でも松野は中心にいるのだと僕は納得した。それにひきかえ、僕には家庭に居場所がなかった。僕はずっと法律事務所で働いていて、労働事件に関わることに生き甲斐のようなものを感じていた。そこの弁護士たちにそそのかされて司法試験なんぞに挑戦し、三度も失敗してしまったあたりから妻との間に隙間風が吹き始めたのだった。そんな僕にとって開明ゼミナールの閉校という事態は暗雲立ち込める思いがしていた。
「先生、次の手はどうなるの」
「まず、閉校の理由ですよ。たぶん労働組合を嫌がってのことだろうけど、表向きはそうはならないでしょう。それと、私たちの雇用をどう考えてくれるかですよ。とにかく、組合の集まりを持つことだし、北部労連に相談するのも必要ですよね」
「そうだね。まあ、なるようにしかならないわね」
桜の花びらを追いかけながら歓声をあげる子供たちと、それを見守る若い母親の姿は幸せな光景だった。僕らのこれからとは随分かけ離れた世界だった。
「くよくよしてもしかたないわね」
松野はゴクリと缶ビールを飲み込み、僕は苦笑いを浮かべて頷いたものだった。春になるたびに、僕は児童公園での花見を思い出した。
その日、朝陽電気近くの公園で集会とデモがあった。
韓国アサヒはその後、既定方針通りに廃業となり、組合員たちは解雇されたが、闘う姿勢を変えようとはしていなかった。その廃業と解雇に抗議する集会とデモが準備されたのだった。その日、僕は加藤と一緒にその行動に参加していた。加藤はいま、塾の英語教師と日本語教師に戻って食いつないでいる。
公園の入り口では検温と消毒が行われていた。コロナ禍は一向に衰えることなく、第四波に向かっていた。集会の参加者もマスク姿だった。僕は「開明ゼミナール労働組合」の幟旗を掲げた。
「結構、いっぱい支援者がいるんだね」
「うん、労働組合だけではなく、日韓問題にかかわっている市民運動の人もたくさん参加しているんだって」
「ちょっと羨ましいね」
集会では支援する会の代表の挨拶や支援労組のアピールもあったが、韓国のリズムを奏でる打楽器演奏があったり、韓国の労働歌謡と律動(ユルトン)があったり、朝陽電気を批判する替え歌が披露されたりと、いつもの労働組合の雰囲気とは違っていた。
「なんか、楽しい集会ね。なんかアメリカの集会のような感じ」と加藤が言った。
「そうなんだ」
「私たちも見習わなくてはね」
集会の最後には韓国アサヒ労組の決意表明がオンラインで紹介された。
「日本の皆さん、この半年、私たちの闘いを支援していただきありがとうございます。コロナ禍を悪用した朝陽電気の悪辣な偽装廃業と解雇のため、私たちの日本遠征は叶いませんでしたが、オンライン遠征団という新しい闘い方を生み出してくれました。私たちは一人も脱落することなく、新たな闘いを進めていくつもりです。最後まで闘って工場に戻ることが私たちの願いです。いつの日か皆さんとともに勝利集会を実現しましょう」
韓国アサヒ労組の決意表明が紹介されると、シュプレヒコールが上がったが、唱和はなく、拳が挙げられ、打楽器の民族楽器が打ち鳴らされた。宣伝カーの後に打楽器部隊が続き、隊列が本社に向かって動き出した。
集会とデモが終わったときには夕暮れになっていて、松野と三人で会うことになっていたが時間があったので、僕らは駅前の喫茶店で一息入れた。
喫茶店の隅に落ち着くと、僕は集会についての加藤の感想を聞いてみた。
「韓国アサヒの集会、朱美ちゃんは初めてだったよね。どうだった」
「そうね、なんか元気が出る集会だったなあ。音楽もあったし、韓国アサヒ労組員の似顔絵パネルがあって、いつもの組合の集会と違っていたわ。私たちももっとやらなきゃと思ったわ」
開明ゼミナールの労働組合は、労働委員会にも裁判所にも訴えたが、組合潰しの偽装閉校を認めさせることはできなかった。この世の中、全てがアイツらのやりたい放題だと僕は思ったものだ。労働組合の活動は当然にも認められているのだが、それらを骨抜きにする仕組みがあるのだとつくづく感じた。経営者の開明ゼミナールは決して赤字ではなかったが、当初の計画未達成を理由にした閉校だと主張し、関連校への受け入れと慰労金を準備した。誰もが組合潰しのための閉校だと知りつつも、ひとりふたりと組合員はいなくなり、残ったのは僕と松野と加藤の三人だけになっていた。
「ねぇ、瀬川先生、『コスモス』って歌、知ってる」
「それって山口百恵の歌」
「ううん、七〇年代のフォーク歌手加川良の歌よ。漢字の秋桜ではなく、カタカナのコスモスなの」
「…………」
「スマホで偶然見つけたんだけど、私たちにピッタリだって思ったの。野辺に咲くコスモスの歌で、派手に咲いている花じゃないけど、器量よしでもないし、つたない香りだけど、その身を恨んだことはないし、わきまえているって……」
「そうなんだ。コスモスか、僕も好きだよ、コスモス。風に揺れるコスモスってけなげに生きている感じがするし、風に揺れるコスモスって、大変さをやり過ごしているようにも見えるよね」
「韓国の闘いって、ほんとにすごいわ。当たり前のことを普通にやってんだもの。ああ、これがコスモスなんだって、納得しちゃった」
開明ゼミナール労組は、毎月、閉校になった一九日前後の本部抗議行動だけになっていた。団交要求を掲げているものの、梨のつぶての日が続いていて、僕らも支援の人たちも勝ち目のない闘いになりつつあると思い始めていた。それでも、始めたからには最後までやるしかないし、それは大きな負担とは感じていなかったが、展望が見えないことが何よりもつらいことだった。
それから僕らは「青葉」に向かった。そこに北野が来ているはずだった。「青葉」に着いたら電話するように言われていた。
「今どこ、店の前、わかった」と北野の声だった。
ドアにはカーテンが引かれていた。そのカーテンの隙間に光が差すと、ドアの向こうに人影が現れて鍵を開けてくれた。この時間、営業自粛の要請が出ているはずだったが、それを無視して営業しているようだった。店にはいつものように客がいて、お酒も出ていた。いつもの外国人の店員が二階を指さし、北野は二階だと教えてくれた。
「ご苦労様、集会どうだった。朱美ちゃんは初めてだよね」
「うん、こんなコロナ禍なのに、いっぱい来てたわ。歌とかあって、いつもの日本の集会のイメージじゃなかったわ。私たちも頑張なくちゃと思っちゃった」
クサヤの匂いがしていた。二階には僕らの他にも客がいて、結構大きな声で話していて、いつもの「青葉」と変わらなかった。
「そうね、そろそろ私たちも会長宅訪問を考えなくちゃね」と北野が言った。
開明ゼミナールの偽装閉校は会長の差し金であることはわかっていた。小さな塾から始めた会長は、これまでも何度も組合潰しをやってきたことが分かっていた。もうすぐ八〇に手が届くのだが、実権を振るい続けていた。この争議を解決できるのは会長の決断にかかっていた。僕らは会長の住所を調べ、実際に見に行ってみた。住宅街にある自宅は三階建てで、それなりの構えだった。塀を覗き込んだ僕らは、大きな飼い犬に吠えられたものだった。何度か会長宅訪問の話は出たが、他の争議でも接近禁止の命令が出たり、名誉棄損の民事訴訟になったりしていたこともあり、北部労連では積極的ではなかった。そうした弾圧のせいで組合活動は自主規制させられていた。月に一度の本部前抗議行動、それと開明ゼミナールの全校的なイベントに合わせた要請行動が主なものだった。労働委員会や裁判闘争のころには活発だったが、次第にマンネリ化しつつあり、展望の見えない日々が過ぎていた。争議が展望のないまま長期化する兆しが見えていた。
「いつかは会長宅訪問をやらなくてはならないんだけど、韓国アサヒ労組のように手紙を持参することぐらいはできるんじゃないかな。隊列を作ってのデモなら、警察も出てくるだろうし、厄介だけど、少人数で訪問して様子を見るのはどうかな」
僕は正月の社長宅訪問の様子を話した。
「まあ、そんなところから始めてみようか」
北野は酎ハイをかぶりと飲み込んだ。
「私、思うんだけど、このままいくと争議が長期化してしまいそうな気がするの。私たちの行動がどれだけ利いているのか分からないし…。韓国の人たちのアピールを聞いていて、負けてられないなって、づくづく思ったの。ギアチェンジをしなくちゃ……」
朱美ちゃんが頬を赤くして言った。僕らはその夜、コロナ禍の闇営業をしている「青葉」で久しぶりに気持ちよく飲み、いつにない展望の見えそうな話ができた。
帰りの電車には酔っ払いはいなかった。マスクをつけたサラリーマンが疎らに座っているだけだったし、誰もがスマホを覗き込んでいた。僕はスマホを出して「コスモス」を検索した。長髪の加川良が体を揺すりながらギターの弾き語りで歌っていたが、彼は四年ほど前に亡くなっていた。七〇年代のフォークにはメッセージがあった。僕にとってはひとつ前の世代だったが、それだけに新鮮さを感じた。
こんなに遅くの帰宅は久しぶりだったし、それもアルコールが入っているのは何か月ぶりだろう。でも、家のことを思うと、僕の心は心底愉快なものにはならなかった。僕が争議を始めた頃から、妻との間には笑い合う会話はほとんどなくなっていた。僕はまた法律事務所で働くようになり、しきりに司法試験の再チャレンジを勧められていた。長い争議を闘っている人の体験談は、自分を奮い立たせることよりも家族に理解してもらうことが難しいと何度も聞いていたし、愛想をつかされて離婚したケースもいくつか聞いた。韓国アサヒ労組の組合員からも、周りからはどうせ勝てない闘いだとか、いつまでやっているつもりなのかという家族や親戚たちに言われるのがつらいと訴えていた。毎日の行動による肉体的な疲労よりも、精神的な負担が大きいと訴えていた。僕にも痛いほどに理解できた。僕は「私たちはコスモスよ」と言った朱美ちゃんの笑顔をふと思い浮かべた。「青葉」の二階で北野が妻との関係を聞いてくれ、僕は生返事に笑みを浮かべただけだった。妻との距離が遠くなった分だけ、僕は朱美ちゃんが大きくあるのを感じ始めていた。
ジョギング日誌―不要不急
三 上広昭
世の中は地獄の上の花見かな 一茶
某月某日
九時半、ジョギングに出る前に鏡をみると、右の目の下にあった米粒大のシミが大きくなっている。左にも大きなお友達ができている。気にするな、これは長いあいだの郵便配達のあかしなのだ。郵便労働者の勲章なのだ、安っぽいけど、そう思うことにしたではないか。そうなのだが、未練たらしく紫外線防止のため帽子をかぶり、サングラスで黄斑した目を守る。おっと、忘れてはいけない、ネットで手にいれたミズノのマスクだ。
五分ほどで、多摩川の河川敷のコースに出る。快晴の空の下多摩川がゆったりと流れている。マスクをはずし、GPS付のランニングウオッチのスタートボタンを押す。上空かなたの衛星〝みちびき〟がわたしの走路・タイムの記録を取ってくれる。月間、年間の行距離も累積してくれる。衛星がわたしのウオッチを捕捉し始めた、すこぶる便利だ。……えっ? そのデーターは集められ、売られ、なにかに使われるぞ! よけいなお世話だ。
コロナ禍の河川敷に人はほとんどいない。ところどころで高齢者が歩いている。散歩というよりウォーキングだ、よそ見もせずにマスクをしてがんばっている。若い人も最近は目につくようになった。それも初心者だ。だぶついたお腹、使い慣れていないジャージ、パソコンで丸まった背中に腕を抱え込んだ姿勢。リモートワークで体力に不安を覚えた労働者諸君に違いない。だが、あんなぶざまなフォームでもわたしよりも速い。そんなに速く行っても君たちのその先には明るい未来が待っているのか? まあ、いいか。さっきまで
遠くにあった黒い雨雲がわたしを追い抜く若者を待ち構えているではないか。
某月某日
な んとか宣言が出るがかまわずジョギング。河川敷のコースに着くとマスクを外すかどうかきょろきょろと様子を伺う。そこそこノーマスクのランナーがいる。
マスクをつけてランニングをしょうとN教授が言うとほとんどがつけて走り始めた。ノーベル賞をもらい、自らもランナーであるN教授が言うと「説得力」がある。
1300億円をかけて作った世界一のコンピュター〝富岳〟が実験した飛沫の飛び方の画像がマスクランニングの後押しをする。さすがだ、世界一のコンピュターに飛沫のシュミレーションなんかさせるなんて豊かなニッポンではないか。てっきり貧乏な大学の研究室が百円ショップで買い集めた材料と扇風機と暗幕でつくったものかと思った。「一番じゃないといけないのですか」と言いたいが石が飛んできそうなので黙っておこう。
N教授もそのあとトーンを緩めたらしい。スポーツ医学会などが二メートル以上離れていれば屋外でのマスクについては推奨しないとくぎをさしたのだ。そのためかマスクランナーは六・七割になるが、一度流布した情報は消えない。ネットの世界ではいつまでもその自信にあふれた姿は流れ続けている。
マスクをしないのは無知の証拠、利己的である、はき違えた個人主義だとさんざん言われ。、トランプの支持者と重ね合わせられる。マスクはそんなに有効なのか。マスクをしていればみんなと同じだという安心感があるだけだろう。これを言うとひねくれた高齢者だと睨まれる。マスクの中だけで呟くことにしよう。
某月某日
今日もとりあえずジョギング。テレビで不要不急の外出を控えるようにとテロップが出ていたが、見なかったことにする。
多摩川に向かう府中街道の途中にあった「洋服の青山」が閉店していた。三ケ月も前から〝完全閉店セール〟をしていて、これもセールスの一環だと思っていたら、本当に閉店してしまった。コロナ禍で会社に行く必要がなくなって背広が売れないとは聞いていたが目の前で起きるとへーとなる。
近くの「ユニクロ」も閉店した。うちの娘などはネットで商品をみて、それをお店であれこれ試着して、帰ってきてネットでその品物を買うと言っていた。こんな娘のような客がいるから店舗型の商売はたまったもんじゃない。親の顔が見たいものだ……。ウイグル自治区で人権無視の労働で作っている材料を使っていると報道された「ユニクロ」。だがある日のわたしは上から下まで着ているものはすべて「ユニクロ」ではないか。知らなかったことにしょう。
某月某日
もともと用事のないうえにコロナ禍でそれらが中止になりヒマになった。実はもともとヒマだったのだが、しかたない、不要不急のジョギングに出る。
河川敷にブルーシートで家を作り住んでいた人たちが戻ってきていた。水道と便所があるから雨風をしのげれば大丈夫なのか。家は川沿いに建ててある。橋の下は避ける。寒いし暑いだろう。病気になるんじゃないか。昨年の大きな台風で多摩川の河川敷が冠水し、どこかへ避難していた。コロナ禍でまた川沿いに戻ってこざるをえなかったのか。
土手の向こう側にはマンションが立ち並ぶ。煙を吐いていた工場の跡地だ。小綺麗な「キャノン」や流通大手の「アマゾン」といった時代の先端の企業も並んでいる。煙を吐いていた工場にいた労働者はどこへ行った。
工場の跡地といえばわたしの住んでいるマンションもそうだ。引っ越しする前、「この土地にマンションを建てるのか! 六価クロムは大丈夫か!」という立て看板が立っていた。六価クロムの上だから安かったのか。見なかったことにした。
幼稚園児や保育園児も河原にくる。短く刈り取られ拡がる草原は安全に走り回れる。ときどき同年配の男性高齢者が補助でついてきている。孫のような園児を相手に働いているのだ。それも楽しそうなのだ。わたしは見つからないように、下を向いて走り抜けた。
某月某日
今日は日曜日、まだ宣言が続いているが、善男善女と健やかな青少年少女が多摩川に集う。ひねくれた高齢者もときどき混じる。昨日の雨もあがり河川敷も地熱で乾き始めている。
今日は「二時間走」の予定。太もものうしろが痛むが高齢者には残された時間は少ないのだ。フルマラソンの持久力のため、時間と距離を伸ばす。日曜日とあって足に自慢のランナーが颯爽と走り抜けていく。
多摩川を海に向かって走ること一時間で河川敷の中にあるグランドに着く。目標の折り返し点の一〇キロ地点。
そのグランドに隣接している〝打ちっ放しのゴルフ場〟は今日もお客でいっぱいだ。コロナが蔓延した当初はパチンコ屋とともにこのゴルフ場もやり玉にあがった。土手から撮るとテレビ映りが実にいいのだ。「マスクをつけないでやっています」「都内ナンバーの車が続々入っていきます」とアナウンサーはテンション高く叫んでいた。すぐに休業したが、マスコミの関心が「夜の街」に移ったのをみて何食わぬ顔をして再開した。
トイレをして河川敷の水道水を飲み、遠くに秩父連山を望み乍ら来た道を戻る。戻ったといえば春になんとこのグランドが一面の菜の花畑になったのだ。コロナのせいではない。なんでもコロナのせいにしちゃ彼らに悪い。彼らは自分では動けないのだ。
コロナ禍の前年の台風で冠水したため半年ばかり使えなかった。流れ込んだ土砂に種が含まれていたのか、風で飛んできたのか。なにより人間がグランドを踏み荒らさなかったのが一番だ。それはそれは見事なものであった。対岸の大田区の清掃工場の高い煙突に良く映えていた。まてよ、もともとは菜の花の土地だったのかもしれない。住宅地への水害も多摩川がもとの流れを思い出しただけなのかもしれない。ここは、おれの通り道だ。余計なことを言ってしまった。いまではもう一周二〇〇メートルの土のグランドに戻っている。隣接する野球場では少年野球のコーチが子どもたちに怒鳴り声をあげている。
怒鳴り声を消し、一面、菜の花畑になったグランドだけを脳に残しておこう。ともかく快晴、快なり! 快なり! 足取りも軽いぞ。
某月某日
東京マラソンのスタートラインに立っている。コロナ禍で大会がほとんど中止になっていたので久しぶりだ。気温が十度のなか東京都庁前でランナーはもう一時間も待たされている。今年の大会はコロナ禍のため着替えはできないので家を出るときからレーススタイルで来た。コース上での給水、捕食もないので背中のランニングバックにはペットボトルとバナナが入っている。
何故か、わたし以外は暖かそうな防寒着を着ている。K知事の自慢と英語まじりの挨拶が終わるとスタート。号砲が鳴り歓声が上がるが、わたしたちのスタートはこれから三十分先だ。もう小便がしたくなってきた。
ようやく歩く程度に動き始めると周りのランナーはもぞもぞと防寒着を脱ぎ始める。下からはカラフルなウエアーが出てきた。なんと、スタートラインが見えると彼ら彼女らは沿道にその防寒着を投げ棄て始めたではないか。防寒着の乱舞だ。沿道に届かない防寒着がランナーにあたり怒号が飛び交う。消費社会の毒花が咲き乱れる。やがてランナーが赤や黄色の「餓鬼」どもになり下がり地獄の門に向かって突き進む。わたしは違う! と叫ぶが、その流れに巻き込まれてどうにもできない。前には閻魔様が分厚い咎帖を持って待っている。餓鬼たちとわたしは裁きを受けるために突き進む、やめてくれ! わたしはなにもしてない!
目が覚めると風邪をひいたのか、熱が出てきた。咳も出てきた。饅頭の味がしない。気のせいだ、そういうことにしよう。
『労働者文学』89号掲載